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第2回日本グランプリ

1963年9月、プリンス自動車から1.5リッタークラスのファミリーカーに生まれ変わって登場した2代目スカイラインは2年、または4万キロ保証の封印エンジンをはじめとしたメインテナンスフリーを打ち出して話題になりましたにゃ!

その翌年、第二回日本グランプリでの優勝を狙うプリンスは4気筒エンジンを積むスカイラインのノーズを200mm延長してグロリア用6気筒2Lエンジンを無理やり押し込み、レースの出場資格を得るために100台のスカイラインGTを生産、販売しましたにゃ!

そんなスカイライン優勢と見られていたレースにトヨタの契約ドライバーであった式場壮吉が突如ポルシェ904で参戦することとなり、優勝を目論んでいたプリンス陣営は優勝の見込みがなくなってしまったことに肩を落としましたにゃ。

ところが予選で式場のポルシェがクラッシュして予選3位、生沢徹のスカイラインGTが予選1位通過、続く2位も砂子義一のスカイラインGTとプリンス勢がワンツーフィニッシュを決めたんですにゃ!

本戦までの2日間の間に急場しのぎの修理を施された式場のポルシェは決勝ではスタートから一気にトップに立ち、逃げるポルシェを生沢らのスカイラインが追いかけるという展開が続きましたにゃ!

そして7周目、周回遅れのクルマを抜きあぐねていたポルシェの隙をついて前に出た生沢のスカイラインGTがついにトップに立ち、ポルシェを後ろに従えてホームストレートに戻ってきた時にはサーキットに観衆の大歓声が湧き上がりましたにゃ!

でも次の周では再びポルシェがトップに返り咲き、結果は1位がポルシェ、その後6位までをプリンスのスカイラン勢が占めるといった内容でレースは幕を閉じましたにゃ!

でもたった一周とはいえ成り立ちは単なるファミリーカーであるスカイラインが、生粋のスポーツカーであるポルシェを抜き去ってトップに立ったことに観衆は総立ちになり、ここから「スカG伝説」がはじまったと言われておりますにゃよ!

今では高級車になってしまったスカイラインにゃけど昔はみんなの胸を熱くするロマンや伝説がたくさんあったんですにゃー!

1965年には正式に6気筒エンジンを積んだGTモデルがカタログモデルとして登場、そのおとなしい外観に3基のダブルチョークウェーバー、前輪ディスクブレーキなどを標準装備したGTは羊の皮を被った狼と呼ばれましたにゃ!

その年の9月には圧縮比を落としてキャブレターを1基に減らしたGTーAが発売されたことにより、既存のGTはGTーBと改称、1966年にはプリンスが日産に吸収されて消滅、スカイラインも新たに日産スカイラインを名乗りましたにゃ!

そんなスカG伝説誕生の1964年は東京オリンピックが開催されたほか、カルビーからかっぱえびせんが発売されましたにゃよー!

そして少年サンデー誌上で藤子不二雄先生のオバケのQ太郎の連載が開始した年でもありましたにゃ!